続「かない」と続「けない」。足つぼ飽きたなって思ったときに思い返すこと。

 

足つぼを、これでもかと休みなくやり続け、ブログでそれを発信しまくり、本を読みまくり、新しいことを考え続け、それを話しまくる。

 

毎日楽しく、そして緊張しながらも生きているのですが、年始早々会う人会う人褒めてくださること。

 

それは「毎日ブログ続けるってすごいよね!」

 

ということ。僕にとっては感慨深い一言で。何故かと言うと小学校六年生以来、僕は何一つ。そうどんだけ小さなことでも何一つ続けることが出来なかったからです。

 

コツコツ、積み重ねることが出来る人の事を誰よりも憧れていたし、コンプレックスだったからです。

 

僕は最近、心から尊敬できる人とばかり会えています。でもそんな人たちでさえ「続けるってすげえよな」とほめてくれた後、若干しょぼーんとしている姿をみて。

 

「いやいやそんなことはないですよ」と伝えたいです。

 

そして心がくすまない限り、僕は僕と関わって下さる全ての方に

どんな選択をしたとしても僕はみんなの力になりたいです、と伝えたいです。

 

で、今回は「継続は力なり」なのか「無理せずやりたい時にやればいい」なのか問題について記事を書きたいと思います。

 

続「かない」じゃなくて続「けない」

色んな視点があると思いますが、物事を続けるということについて、僕が気づいた事は日本語の問題でした。言葉は些細であっても「道具」である以上、使い方を誤れば思考も狂うんです。

包丁だって、ほんの少し手元が狂えば怪我をするのに、僕たちは言葉については曖昧に使い過ぎています。

 

例えば続く続かない、にしても続「かない」という言い方の本心は

お金が無いから。忙しいから。人脈が無いから。しんどいから。

という外的要因で続きませんでしたと自分に言い訳している気持ちが見え隠れしています。

 

そういう環境も含め、僕たちは無意識的にも意識的にも「選択」をしているんだと思います。

だから続「かない」と物事をぼやかすのではなく続「けなかった」と自分の意識を明確にさえすれば、続けなかったことは自分にとってプラスの経験になるんだなって感じました。

 

物事には陰陽がある。続けない事だって尊い

少しだけ物事を続けられるようになった現在。だからこそ極端に物事を続けられない自分の過去を否定するつもりはないです。それだって貴重な経験だったと思うからです。

 

例えば生物は徹底して続「けない」ことをしてきたと思うんです。人間の遠い祖先はモグラに近い姿をしており、土の中で生活していたとされていますが

 

もし神様がいたとしたら

 

「お前ww土の中にいたんちゃうん?wいつの間に木に登ってwしかもww下りた?ワロタww」

 

とツボっていることでしょう。全然生物は同じことなんてしてないんです。

続けないというのは物事がうまくいきそうにない時の「見切りの早さ」の能力が高いってことだと思うんです。続けまくった結果、死ぬことだってある。

 

だから僕が大好きなみんなへ。

 

続かないそんなあなただって僕は大好きです。

 

足つぼが続くのは敏感だったから。同じに見えないから。

ちなみに僕が足つぼ続けられるのは「飽きない」からですが、それは手先や目の前の人の感情の変化に敏感だったからです。

 

人は同じことをするのはすぐ飽きますが、同じでないものには飽きません。

 

人はそれぞれ敏感なところと鈍感なところがありますが、それがそのまま得手不得手になります。得意なことは続くし、不得意なことは続かない。

 

敏感な事にこそ、継続できる何かがあると思います。

 

そして僕の手の中にある、お客様の足に心に、何一つとして同じものはない。

 

だから続けられるんです。

続かないことを言い訳にしないでほしい

いずれにせよ続くことも続かないことも実現したことにとって糧にしたい。絶望も希望も、黒い感情も感謝の念も全て糧にしたい。

 

他ならぬ自分もそして皆様にも。

 

僕は言い分せずに接していたいです。

 

褒めてくれてありがとうです。

 

また足つぼします。