足つぼ師をして文章書くのが上手くなった気がする件。
東洋医学の勉強!なんてほどのことは全くできていないのですが、その片鱗に触れるだけでも、色々なことに気付きます。
その中でも特に印象的なのは「自分で読んでいても文章が良くなった気がする」ということ。
ライターとして飯を食っていくにはレベルは低すぎるくらいなのですが、それでもかなり良くなったなと。
足つぼ師をするようになってから急激に、なのでこれには何かあるなぁと。今回は文章を書くという経験と足つぼ師の経験のどこがどう繋がっていったのかについて書いていきたいと思います。
陰陽。
物事には陰陽がある。この記事を読んでくださっている方ならご存知のモノの考えだと思います。
でも、はっきり言ってそれは「知っているだけ」の感覚であることが多いんじゃないかと思うんです。
だって、これだけ陰陽があるという考え方を知っていたとしても人は未だに
「これは悪いことだ、良いことだ」
と善悪を区別してケンカをしたり疎遠になったりすることがたくさんあるからです。
僕の解釈だと陰陽論とはそれぞれに大切な役割があることを教えてくれている気がするんです。
生は良くて死は悪いことだとは誰も思いません。でも障害を持って生まれたら?殺されて死んだとしたら?
当事者になった時、そこで渦巻く感情を僕たちはどう捉えたらいいんだろう。
陰の中にも陽が。陽の中にも陰が。絶えず入れ違い混じり合いそして相克しあう。
それが陰陽論の考えの中心にある気がします。
文章を書く時。僕はまず意識するのはこの陰陽の感覚です。
自分がいま届けようとする感情に向き合い、批判をする瞬間には感謝を。感謝する瞬間に悲観を。無理やり書こうとする瞬間に楽しさを。
感情をぐるぐると回し、本当に偽りのない感覚になったものだけを言葉にしていく。
すると、読み手に届きやすい言葉になるのかなと思っています。
これを、より多くの人を巻き込んでいくくらいの力にしていくにはまだまだ加えて行かないといけないことがたくさんあるんだなと思います。
覚悟する
足つぼしかしない。そう覚悟を決めると言う事やることも覚悟を決めるようになります。
あれもこれも、じゃなくて「これをやる!」とどんなに細かい選択でも、時間がかかってもかからなくても、決断できることが多くなりました。
選び取る、という感覚になることが増えました。
それは文章を作る時においても大切です。あれもこれも書こうとするのではなく「これを伝えたい!」と想いを選び取ること。
俺はこの一球はこうなげる!と決めて読者に投げ込んでいく。そんな感覚。
足つぼ師としての姿勢と文章の書き方には関連があるんだと、今になって思います。
色んな方に感謝する
色んな行動をする。色んな方に頼る。そんな経験をすると当たり前のことが当たり前ではないし、記事を書く時も色んな方の顔が浮かびます。
その「相手の顔が浮かぶ」というリアリティこそが、言葉に魂を宿らせる最終的に、そして絶対大切なことだと思います。
僕は毎回、この人に読んでほしいという人を何人か思い浮かべて書いています。上手いか下手ではない、思い浮かべ打ち放つ。そんな感覚。
これらのいくつかの足つぼ師の経験が僕の言葉を作っています。