ある足つぼ師は笑う。
僕は足つぼの施術をする時、結構笑います。
それこそ、お客様が痛がっている時ほど、ニコニコしています。その理由をこの記事で書き残しておこうと思います。
自殺は案外簡単にできる
僕は小学生のころ、自分に原因があったにせよきつめのいじめに遭っていました。無理に親は学校に行かせようとするものだから、辛すぎる毎日に「ここから逃れたい」とばかり思っていました。
すると五感がぼーっとしていきます。テレビやらマンガやらを現実逃避に使い過ぎてもう訳がわからなくなっていった、というのもあります。
ある日通学路を歩いていると車の音が妙に大きく聞こえたんです。ふと目を向けると大量の鉄の塊が高速で行きかっています。
「ああ、これで楽になれるなぁ」
と道路へ一歩踏み出した瞬間、また車の音が大きく聞こえます。
「ああ、やっぱり怖い」
そうやって歩道にまた戻り、家に帰るということがしばらく続きました。
みんな簡単に一線を越える
長い年月が経ち、高校生くらいになると、小学生、中学生の自殺のニュースを目にするようになりました。僕は死ねなかった。彼らはなぜ一線を越えることが出来たんだろうと常々感じていました。
遺書などを読んでみても安易に「死」とか「人生」という言葉を使っている印象でした。たぶん、死なんてものは、自殺の怖さなんてものは彼らは理解していなかっただろうと思います。
恐らく、辛いことや無力感の根本にあったのは「五感の死」があったのではないか、と感じるようになりました。
殴られる痛みが僕を引き留めた
僕は悪いことをするたびに親から包丁を胸にまで突き付けられたり、殴られたりとかなり痛い目を見てきました。あまり良い教育だとは思いません。
しかし体の記憶はとても重要で、この経験のおかげで僕は歩道から
「この痛みよりこの鉄の塊にぶつかる方が怖そうだ」
と理屈ではなく感覚で想像していました。臆病かもしれませんが、それで一線から引き留められたと思っています。
もちろんそこに愛情や親なりの葛藤があったからこそ、という前提はあると思います。
僕たちは一体いつから痛みを遠ざけるようになった?
翻って僕たちの生活全体はどうでしょう。生活は、より快適により美しくより刺激的なモノで溢れています。
人間関係も好きではない人をすぐに切っても困らないし、大好きな人とだけ付き合っていても不自由しません。
1人でも生きて行けるし(と思っているだけですが)、結婚してもしなくてもいい。
あらゆる概念を言い訳にもできるし(例えば個人の権利とか自由とか科学的かどうとかこうとか)、相手への攻撃にも使えもします。
気付いたのは、それらが自分から怖さや痛みを遠ざけているようにも見えたということ。
それって体の感覚や心が何を感じているのか、全く分からなくなるんじゃないかと僕はそれこそ恐ろしくなりました。
何を感じているのかということと、言葉が一致しなくなる。自分でも何を言っているのか分からなくなる。簡単に死ねる子供たちの、実態は言ってみれば身体感覚を奪ってきたあらゆる文明の利器と、概念(言葉)なんじゃないかと思っています。
足つぼは痛い。
疲れとは自分の状況が分からなくなるほどのマヒを指す、と思っています。
足つぼは痛いですが、その身体感覚が取り戻しやすくなるとお客様の反応から感じています。
自分は案外元気だと思っていた人が実はぼろぼろでしたなんてことはよくあることなのですが、そのギャップが大きいほど突然鬱になったり、突然大きな病気をしたりということに繋がるのかなと。
痛い痛い、とお客様が反応すればするほど、僕がニコニコしているのは
「ああ、良かった。これで少しこの人が突然倒れたり鬱になったりせずに済むなぁ。いつまでも元気に仕事していてほしいなぁ」
と思いながらしているからです。
今日もどこかで笑っていますぜ。